長崎県立瓊浦中学校は、現在の長崎県立長崎東高等学校と長崎西高等学校の前身校となった学校の1校で、校地は現在、長崎県立長崎西高等学校に受け継がれています。旧制中学校は5学年制の男子校で、戦後の学校制度においては高校となりました。
瓊浦は、「けいほ」と読みますが、「たまのうら」とも読み、美しい港・長崎港を校名の由来としています。
瓊浦中学校は、爆心地から南南西に0.8kmの位置にあったため、本館や別館などの全校舎が倒壊し、体操場や工作室などは全焼しました。数川与五郎校長以下教職員7名は倒壊した建物の下敷きとなり、この場所で殉職されました。生徒は、2年生以上は学徒動員で、各動員先におり、学校に通学しているのは1年生だけでした。その日は、ちょうど英語のテストがありましたが、10時ごろに終わり、下校していたため、在校していたのは学校防護隊の生徒が40名ほどいるだけでした。この学校防護隊の生徒も被爆によりその大半が命を落としたといいます。
現在の長崎県立長崎西高等学校内には、被爆を物語る遺構は多くありません。そうした中で、このクスノキは被爆による惨状を乗り越え、いまなお多くの生徒を見守っています。