長崎市立城山小学校は、平和公園の西側、浦上川を隔てた標高17mほどの小高い丘の上にあります。被爆当時は、城山国民学校と呼ばれ、在籍児童約1500名を擁していました。
1923年創立の城山国民学校は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の校舎を持ち、中学(現在の高校)への進学率も高く、文武両道で名の知られた学校でした。
しかし、戦争末期には、児童は隣組単位(戦中まで存在した5~10世帯を一組とした町内会の実質的な下部組織)での学習となり、教室は三菱兵器製作所が事務室として使用していました。
城山国民学校は、爆心地から西に約500mという非常に近距離にあったため、原爆被爆により鉄筋コンクリート造の校舎を除く建物は倒壊、もしくは倒壊・焼失し、当時校舎の内外にいた先生方と三菱兵器製作所の職員・動員学徒が130名以上亡くなりました。また、地域にいた児童も1400名あまりが亡くなったといわれています。
このカラスザンショウは、校舎の北側の斜面にあり、爆心地に直接面してはいなかったものの、熱線の照射や爆風の被害により大きな損傷を受けました。しかし、その後新芽を出し、息を吹き返しました。幹の根元のあたりの樹皮がはがれ落ち、焼痕もあるため、その痛々しい姿は原爆の被害を伝えるものとなりました。そして、戦後、カラスザンショウの隣で成長し大きくなったムクノキが、カラスザンショウを支えているように見える姿は、子どもたちの平和・人権教育の題材ともなりました。
しかし、2016年1月に長崎市で観測史上記録的な大雪が降り、長時間の低温状態により樹勢が衰え、春に芽吹きが見られず、2016年7月に枯死が確認されました。しかし、地域の方々や多くの児童が大切にしてきた経緯があり、被爆樹木のシンボル的存在だったこと、平和について多くのことを教えてくれる樹木であることから、同じ城山小学校内の被爆校舎(長崎原爆遺跡旧城山国民学校校舎)に移され、現在も原爆の痕跡を多くの児童、そして市民に伝えています。